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「ふつうの働き方」って何? 『コンビニ人間』を読んで考えてみた

コラム公開日
自宅から徒歩2分のところにコンビニがある。
なにしろ近いので、ちょくちょく利用するのだが、そこでは主婦とおぼしき女性や大学生のアルバイトがいつも忙しそうに働いている。

その中に、気になる人がいる。
とはいっても、彼女は一見、ごくふつうの人だ。中肉中背で、控えめな雰囲気。セミロングの髪に自然なアイメイク。大きなマスクに覆われて顔立ちははっきりしないが、わずかに覗く肌や手の感じからすると、40代後半から50代前半くらいだろうか。

彼女の何が気になるかというと、それは接客だ。
カゴから商品を取り出しながら「ありがとうございます」、その商品にバーコードリーダーをかざしながら「ありがとうございます」、それらをカウンターに並べながら「ありがとうございます」・・・、小声で、ひっきりなしに、とにかくずっと「ありがとうございます」を連呼するのだ。

「・・・?」
初めてのときには驚いて、まじまじと顔を見つめてしまった。それを知ってか知らずか、彼女は視線を合わせることなく、ひたすら作業に没頭している。マスクを通して伝わってくる小刻みな唇の動き・・・。
凝視しているのがなんだか申し訳ないような気がしてきて、思わず目をそらし、そらした視線の先にある名札に目を留める。アルバイトの名前を確かめるなんて初めてだった。

コンビニに行く度に、「今日は伊藤さん、いるかしら?」と入口からレジの様子を窺うのがいつしか習慣になった。彼女がいてもいなくても、なんとなく胸がざわつく。

伊藤さんの接客はいつでも誰に対しても同じだ。
「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます・・・」

無意識でやっているのだろうか。それとも、なにか強迫観念にでも囚われているのだろうか・・・。

久しぶりに『コンビニ人間』を読み返そうと思い立ったのは、そんなことが頭の片隅にあったからかもしれない。


完璧にマニュアル化された空間で世界の部品になる

『コンビニ人間』の主人公・小倉恵子はコンビニでしか生きられない人間だ。*1

彼女は幼い頃から「ふつう」ではなかった。
公園で死んだ小鳥をみつけると、「これ、食べよう」と言って、母親を仰天させる。

小学校のときには、ヒステリーの教師がわめき散らすのを止めるために、彼女に走り寄ってスカ―トとパンツを勢いよく下ろした。
事情をきかれて、大人の女の人が服を脱がされて静かになっているのをテレビの映画で観たことがあると説明して、職員会議にかけられ、保護者が学校に呼びつけられた。

恵子にとっては、合理的な手段に過ぎないのだが、その度に騒動になる。
何度もこうした騒動を繰り返した彼女は、面倒を避け、平和に過ごすことを選択する。家の外では極力口を利かず、自分から行動することもやめ、皆の真似をするか誰かの指示に従うかしてやりすごすのだ。

そんな彼女は大学生のとき、ふとしたことからオープンしたばかりのコンビニでアルバイトを始めた。
その初日のことを彼女はこう回想する。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。*1:p.19

それ以来、恵子は、36歳の「今」に至るまで、コンビニのアルバイトを続けている。
 なぜ、コンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。*1:pp.19-20

極度にマニュアル化されたコンビニという装置の中に身を置き、徹底的にマニュアルに従って店員になる。そんな自分を、世界の部品であると感じることによって恵子はかろうじて世界とつながり、「正常な人間」としての自分を保っているのだ。
彼女にはコンビニのチャイム音が教会の鐘の音にさえ聞こえる。


「ふつうの人」になるためのマニュアル

恵子にとって、コンビニ以外の世界との唯一の接点は、結婚して地元で暮らしている友だちと会うことだ。
友だちに会う時、恵子はファッションも口調もアルバイト仲間の真似をする。それは、ある種のマニュアルだ。「ふつうの人」になるマニュアル。そのマニュアルに沿って素の自分を消し、本来の自分とは違う自分を演出することが、友だちと交わるための手段なのだ。

友だちは、就職も結婚も、恋愛すら経験のない恵子に困惑し、腫れ物に触るように接する。彼女たちのマニュアルから恵子がはみ出していることが理解できず、彼女がそのことで苦しんでいると思い込んでいるのだ。
迷惑だなあ、と恵子は思う。
 早くコンビニに行きたいな、と思った。(中略)性別も年齢も国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が「店員」という均等な存在だ。*1:pp.32-33

無遅刻無欠勤で、毎日必ず店に来る恵子は「よい部品」として扱われている。
それが、コンビニ人間である恵子の矜持だ。
そういう恵子の在り方が友だちには理解できない。
妹もそうだ。子どもを産んだばかりの妹は、恵子が「ふつうの人間」ではないことを深く悲しみ、「ふつうの人間」になってほしいと強く願っている。

だが、恵子は気づいているのだ。友だちも妹も、恵子に押し付けようとしている「人生のマニュアル」に、実は自らも縛られているのだということに。

しょっちゅう会っている友だちのミホとサツキは喋り方も表情もよく似ている。子どもを産んでから妹の喋り方や服装が変わったのは、今、妹の周りにいる人たちに合わせているのだろう。
そうやって、皆、用心深く周囲に同化しながら、「ふつうの人間」として生きているのだ。

ある日、恵子の前に、白羽という奇妙な男性が現れる。
恵子が、「わからないことがあったら気軽に聞いてくださいね」
と伝えると、
「はあ、わからないこと? コンビニのバイトで、ですか?」
と鼻で笑う。*1:40

彼は経験もないのに「コンビニのアルバイト」を小ばかにし、自分は本来、そんな仕事をする人間ではないと思っているのだ。

そんな白羽の登場がストーリーを大きく展開させて・・・。


「ふつうの働き方」ってなんだろう

恵子は社会の異分子だ。
ふつうに生きられない恵子は、コンビニの完璧なマニュアルに従うことによって店員となり、良い部品として生きることに喜びを感じている。

だが、そういう恵子の生き方を周囲は認めようとしない。
愛情という名のもとに、家族も友だちも、異分子としての彼女を否定し、自分たちに同化することを要求する。
だが、実はそうした同調圧力に、自分たち自身も絡めとられていることには無自覚だ。

自分とは違う生き方をする人間を排除しようとする人々。
マジョリティーの生き方を王道とする社会。

そうした構図から、筆者が連想したのは、非正規雇用の問題だ。
非正規雇用労働者数は2,090万人で、全労働者の37.2%に上る(2020年)。その70.5%を占めるのが、パートとアルバイトだ。
ちなみに、『コンビニ人間』が初めて発表された2016年の非正規雇用労働者の割合は37.5%で、そのうちパートとアルバイトが69.4%を占めていた。*2:p.1、p.3

私は現在、2つの組織と雇用関係があるが、どちらも非正規雇用だ。それ以外にもフリーランスとして業務委託契約を結んでいる組織がいくつかある。
こうした生き方は現在、「柔軟な働き方」として推奨されつつあるが、課題も少なくない。

そのひとつは、正規社員になることを望みながらその転用が難しい、いわゆる「不本意非正規社員」の問題だ。『コンビニ人間』の恵子のように、アルバイトとして働くことを望んでいれば別だが、そうではない「不本意非正規社員」は、2020年に230万人で、非正規社員全体の11.5%を占めている。*2:p.4

また、「非正規社員として働くことを望んでいる」人の中にも、自分が置かれた状況から否応なしにそちらを選ばざるを得ない人もいるだろう。

正規社員と非正規社員の賃金格差も大きな問題だ。
正規社員と非正規社員の平均時給の格差は、684円(短期労働者は511円)で、それに労働時間をかけると、かなりの差になる。*2-p.5

さらに、重要なことは、正規社員と非正規社員とは労働形態の違いであって、能力の違いではないということだ。
筆者はこれまで多くの組織、さまざまな職場で働いてきたが、そこで出会った非正規社員の中には、正規社員より専門性も適性もある方が少なくなかった。

そもそも「非正規」というネーミングにもひっかかる。正規と非正規・・・同じ仕事をしているのに?

こうした社会の断面をふまえて、『コンビニ人間』をもう一度、読み返してみた。
すると、「ふつうに生きる」、「ふつうに働く」とは何か、また、それを他者に要求するとはどのようなことかが少し見えてきた気がする。

私たちは暗黙のうちに「ふつうの人間」として生きるためのマニュアルを刷り込まれているが、それに則って生きていることには案外無自覚だ。
それだけでなく、そのマニュアルに従わない人、従えない人たちに対しては尊大で、その在り方、生き方を認めようとはせず、上から目線で否定する。

そうした「価値観のゆがみ」が他者を傷つけ、さまざまな格差を容認する土壌になっているのではないだろうか。
私たちが日頃感じている生きづらさは、そんなところからも生じているのかもしれない、と。


そのままでいい                                            

所用のため、まるまるひと月、遠方にいた。帰宅して、久しぶりにコンビニに行くのがなんだか楽しみになっていた。

伊藤さんは、いるだろうか。
また彼女に会えるだろうか。

ところが、なかなか会えないのだった。
彼女の姿を探してはがっかりする、そんなことが4、5回続いただろうか、もしかしたら辞めてしまったのかもしれないと思い始めたある日、カウンターで接客する彼女の姿があった。

ちょっとドキドキしながら、彼女の前にカゴを置く。
「ありがとうございます」
伊藤さんの声だ。

ヨーグルトを取り出した。
「・・・・・・」
無言だ。
バーコードをスキャンする。
・・・無言だ。
カウンターに置く。
・・・・・・。

だが、私は見逃さなかった。マスクが微かに動いているのを。
マスクの下で伊藤さんの唇は確かに動いている。
声には出さないが、「ありがとうございます」と言っている。

声に出したっていいんですよ。
伊藤さんは伊藤さんじゃないですか。
伊藤さんは伊藤さんのままでいいんです。
伊藤さんは伊藤さんのままでいてください。

私も声に出さずに呟いていた。


資料一覧
*1
村田紗耶香(2018)『コンビニ人間』(文春文庫)株式会社文藝春秋 Kindle版

*2
厚生労働省(2021)「『非正規雇用』の現状と課題」
https://www.mhlw.go.jp/content/000830221.pdf
横内 美保子

この記事を書いた人

横内 美保子

博士(文学)。総合政策学部などで准教授、教授を歴任。<br> 留学生の日本語教育、日本語教師育成、リカレント教育、外国人就労支援、ボランティア教室のサポートなどに携わる。<br> パラレルワーカーとして、ウェブライター、編集者、ディレクターとしても働いている。<br> twitter:<a href="https://twitter.com/mibogon">https://twitter.com/mibogon</a><br> Facebook:<a href="https://www.facebook.com/mihoko.yokouchi1">https://www.facebook.com/mihoko.yokouchi1</a><br> Instgram(mihokoyokouchi):<a href="https://www.instagram.com/?hl=ja">https://www.instagram.com/?hl=ja</a>