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便所のネズミか蔵のネズミか-中国古典から現代を生きる知恵を学ぼう

コラム公開日
学校の授業の中でもおそらく一、二を争う退屈さを誇る科目と言うべき、漢文。
……などといきなり書いてしまうと、全国の国語の先生からお叱りを受けそうだが、少なくとも筆者の周囲には「いやはや、漢文の授業が本当に楽しみで……」と言うクラスメイトはいなかった。

ところが人間、歳を重ねると、えてして考えが変わるもの。
あれだけつまらないと思っていたものが、自分の場合は大学を卒業してしばらく経った頃から、何やら面白くなってきた。

中国の古典が語るエピソードの中には、時代を超えて世に通ずる普遍的な教えがある。
もっと言えば、当時しがない出版社で働いていた筆者には、「これって、サラリーマンにも使えるヒントなのではあるまいか」と感じられたのだ。
ああ、義務教育の間に分かっていれば、国語でもう少しマトモな点数を取れたのに。
そう思いもしたけれど、生涯気づかないよりはマシというものだろう。

さて、中国古典とひと言にいっても、人生を丸ごと費やしても読みきれないほど数多く、教訓もさまざまである。
自分が注目するのは、その中でも処世術に通じるもの。
要は、今この瞬間も会社で大変な思いをしているサラリーマン諸兄にとって即使える名言を伝えたいのである。

なお、文章タイトルに「中国古典」という単語が出てきた時点で、もう半分読む気がなくなりかけている方にも最後までお付き合いいただけるよう、小難しい説明は一切はぶくつもりだ。
漢文の食わず嫌いは、あまりにももったいない。
終わりまで読んでいただければ、皆さまもきっと感じるはず。
昔の人は、えらかったーーと。


美味しいところをつまみ食いする名言の使い方

漢字の故郷・中国では、小さな子どもでも割と普通に、難解な漢詩をそらんじる。
春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞くーー。
なんとなくみんな覚えているこのフレーズは、唐代の詩人・孟浩然の『春暁』という五言絶句の一部。
筆者は現在、中国在住であり、周囲はチャイニーズの皆さんだらけなのだが、友人の3歳の娘はすでにこの詩を暗記している。
これは別に、「天才少女、現る!」とかそういった話ではなく、中国では就学前教育が盛んなため、ちょっと気合いの入った親御さんなら、5歳くらいから『論語』だって教えてしまう。

では、中国ではそうやって誰もが「君子たるもの……」という教育を受けているからといって、世の中が立派な人だらけになるかといえば、むしろ逆。
つまり何が言いたいかといえば、以下解説する教えが「自分には無理」と思っても、そこまで気にする必要はないということだ。

中国古典の名言なんて、それこそ星の数ほどある上、言葉によって主張が真っ向からぶつかるケースも珍しくない。
全部を頭に入れて実行するのではなく、自分に合ったものを選んで活かせば、それでいいのだ。
そのくらいざっくばらんな気持ちで向き合えば、漢文アレルギーの人でもきっと以下の話を気楽に受け止められるはずーーということで、いよいよ本題に入ろう。


サラリーマンにとっても情報は命

「愛爵祿百金 不知敵之情者,不仁之至也」
爵祿(しゃくろく)百金を愛(お)しみて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなりーー。

中国史にその名を残す稀代の軍師・孫子の言葉である。
意味をごく簡単に言えば、褒美を与えるのを惜しんで敵情を知ろうとしない者は、民衆に対して不義であるというもの。
さらに原文では、そのような者は将の器ではなく、主を補佐する者でもなく、勝者にもなれないと説いている。

さて、当たり前だがこれは古代中国の兵法であり、現代を生きるサラリーマンが生かすとしたら、当然アレンジが必要となる。
そこで、筆者は孫子でも漢文学者でもないものの、以下のように超訳してみた。

「会社とは戦場であり、そこで生き抜くためにはいかなる手間も惜しまずに、情報のアンテナを張り巡らせる必要がある。
そうしなければトップに上り詰めることも、出世もできず、いずれは会社を追われて家族に不義理をすることとなる」

われわれ雇われ人にとって、労働とは自らの時間をカネとして売ることに等しい。
そして言うまでもなく、サラリーマンに余分な金などない。
よって、会社で生き残ろうと思うなら、爵祿百金=カネの代わりに時間、つまり手間ヒマを惜しまず、必要な情報を取るべし! という教えである。

ここで言う情報が何であるかは、業種や会社の環境などによって変わってくる。
スーパーブラック出版社に十数年勤めた筆者の体験を語ると、当時雑誌の編集長だった自分にとって、情報とはまず競合他社の状況、そしてもうひとつはしょうもない話だが、「オーナー社長の頭の中身」だった。

ライバル誌がどのような企画を立て、いくら予算を投じて、いつごろどんな本を出してくるか。
これをつかむには、各社横断で仕事をしている外部スタッフや営業さんなどを大事に扱い、敵情を取るのが手っ取り早い。
むろん、そういう人づての情報は玉石混交、ガセもあるため取捨選択する必要があるし、逆にこちらの内情が相手に漏れるリスクだって考えねばならない。
ライバルの動きを知り、先手を打つーー会社の地力が弱い自分たちにとって、そのような情報戦は確かに欠かせないものだった。

そしてもうひとつの探りを入れる対象である我が社のオーナーは、気分で物事を決めるお方であった。
社長決済が要る案件を通すには、絶対にご機嫌の時を狙わねばならず、逆に下手なタイミングで書類を上げたせいで、編集長を降ろされた先輩もいた。

そうなると、役員を務めるバカ息子や社長秘書とのネットワークは非常に重要。
まさにゴミのような仕事、バカバカしさここに極まれりといった感もありつつ、そのための労力はおろそかにできなかったのだ。

サラリーマン諸兄がまず考えるべきは、自分にとって知っておくべき「敵情」が何であるかということ。
敵は味方の中にいることもあれば、総大将が敵というケースだってある。
そうして対象を見定めたら、面倒でもぜひ、果敢に情報を取りに行っていただきたい。

『孫子』とは本来、弱者の兵法。
弱い立場の雇用者が会社で生き抜くためには、策士であることが求められるのだ。


置かれた場所で咲けない時にすべき決断

もうひとつ、皆さまにぜひ知っていただきたい故事を挙げよう。
「李斯溷鼠」、司馬遷『史記・李斯列伝』のエピソードである。

秦の始皇帝に仕え、その天下統一を支えた李斯という人物は、かつて楚という国の小役人だった。
その際、便所で汚物を食らう鼠がこそこそと逃げ回るのに対し、穀物がつまった蔵に住みつき、食べ物に困っていない鼠は、人や犬を恐れることがなかったのを見た。
そうして李斯はトイレの鼠に自らを重ね合わせ、悟ってしまったのである。

「人が才能を生かせるかどうかは、己のいる場所で決まる」ーーざっくり言えばそういう話だ。
この教えも、聞いてしまえばたいがいの方は当たり前と思うだろうが、実行に移せる人となるとそう多くないのではなかろうか。

むしろ、大半の日本人は「置かれた場所で咲きなさい」という言葉の方を無意識に尊ぶ。
また、我が国には
「今いる会社で芽が出ないのは自分の努力が足りないからだ」
「頑張ればいつかは報われる」
という風に、我慢を強いることを美徳とする向きもある。

それが間違いと言うつもりはないのだが、全ての会社組織に通用する考えでは決してない。
自分が働いている場所は果たして、トイレなのか蔵なのか。

むろん現実世界はそこまで極端ではなく、たいがいの会社はその中間で、部署ごとに「ここはお手洗い寄り」といった風に、程度の違いがあるのが普通。
置かれた場所が自分に合わなかったとしても、環境の変化が期待できるなら、別に早まる必要はない。

だが、会社の体質そのものが問題であったり、自分ひとりの力でどうにかなる話でないならば、李斯のごとく環境を変える決断を下すべきである。
かく言う筆者は、置かれた場所で咲こうとして、20代から30代前半の時間を丸ごと燃やし尽くしてしまったクチ。
それが全くの無駄だったとは思わないものの、とんでもない人生の寄り道というか、徒労を重ねたことは確かだ。

幸い、と言っていいか分からないが、自分には大した才能はなかったため、「トイレ」から脱出したからといって、よそで何かを成し遂げられたわけでもないと思う。
しかし、これをお読みの皆さんは、きっと違うはず。
今いる場所で終わるつもりがない、自分の中にはまだ活かされていない何かがあると信じられるなら、ぜひ恐れず前へと進んでいただきたい。

「知行合一」という言葉もあるように、知ったことは行わなければ意味がない。
いにしえの賢人たちの教えを活かし、世知辛い社会を生き抜き、自分にとって最適なキャリア形成に励むべし!
御堂筋あかり

この記事を書いた人

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。