1. リファレンスチェックのASHIATO
  2. お役立ち情報
  3. 土壇場の営業パーソンを救ったものとは? 顧客エンゲージメントの本質を教えてくれる昭和の熱いお話。

土壇場の営業パーソンを救ったものとは? 顧客エンゲージメントの本質を教えてくれる昭和の熱いお話。

コラム公開日
「昭和だね~」「昭和かよ~」と突っ込むときの「昭和」は、泥臭く古臭い時代だ。しかし、それは同時に、強烈なバイタリティーと人情味に溢れる時代でもあった。

右肩上がりのイケイケの時代、モーレツ社員と呼ばれる熱い人々がいた。いや、当時のサラリーマンは全員、モーレツ社員だったという人さえいる。
コメディアンの故・小松政夫氏(以下、敬称略)もそのひとり。彼は昭和30年代後半、腕利きの営業マンだったのだ。今どきの「セールスパーソン」という呼び方は似あわない、「昭和のセールスマン」である。

あるとき、彼が属していた営業所が思わぬ危機に瀕した。窮地を脱するために残された時間はたったの2時間。結局、政夫の働きで間一髪、事なきを得たのだが、そのとき彼を救ったのは何だったのだろうか。

昭和ならではのセールスマンと顧客。そこから垣間見えるのは、顧客エンゲージメントの本質である。


イヌイットに氷を売る?

よくトップ・セールスパーソンはイヌイット(エスキモー)に氷を売ることもできるといわれる。
口八丁手八丁のテクニックを駆使して、相手が必要のないものまでいつのまにか買わせてしまう、とんでもないプロフェッショナルなのだ。


横浜トヨペットでの自家用車販売

政夫のセールスマン生活を彼の著書をもとに辿ってみよう。

彼が横浜トヨペットに入社したのは昭和37年(1962年)。東京オリンピックの2年前のことだった。*1
ツイストが大流行し、ビートルズがデビュー、「マイカー」という言葉が生まれたのもこの年だ。

配属されたトヨペット乗用車センターには、選りすぐりのセールスマンが揃っていた。同センターの全権を握る若き営業部長にスカウトされた、精鋭部隊だ。

営業部長は強烈な個性をもつ火の玉のような人だった。図抜けたバイタリティーと威圧感。
その営業部長がコピー機の営業マンだった政夫に惚れ込み、強引なアタックを仕掛けてきた。

「キミは、 うちで車を売れ」 
「はあ?」
「キミはあんな、30万ぐらいの機械を売る男じゃない。うちで車を売りなさい」
 「いや、そんな、冗談じゃありませんよ。 30万の機械も満足に売れないのに、70万から 
80万もする車なんて、僕に売れっこあり ませんよ」

それはあながち謙遜とはいえない。当時の自家用車は、今のマイホームにも匹敵する、ひと財産だったのだ。

営業部長は政夫の顔を見る度に、勧誘する。日本社会の将来について、自家用車とは何かについて熱く語る。
勧誘は4か月間にわたり、ついに入社した政夫は車を売りまくり、たちまちトップセールスマンにのし上がった。

土日も休まず、がむしゃらに売りまくる。*2
自動車学校に掛け合って受講者に5日で運転免許を取らせる手はずを整え、免許のない人にまで売った。

売れば売るほどノルマが厳しくなる。
それでも、6台のノルマに対し、22台売った月もある。大学卒の初任給が2万円ちょっと、ラーメン1杯が40円の時代に、10万円以上稼いだ。

当時の納車は一大イベントだったという。
納車前には洗車係がボディをきれいに洗うことになっていたのだが、人任せにできない政夫は早朝から徹底的に洗い直し、セーム皮でピカピカに磨き上げ、午前中に顧客に届けた。

顧客は家族総出で出迎える。
近所からも大勢の人が集まり、拍手し、「やりましたな!」と当主の肩を叩く。当主は感激のあまり涙ぐむ。

傷がないか確かめるために、家族全員が車の周りをぐるぐる回って、ボディをまじまじ点検する。
その後は試乗だ。政夫がハンドルを握り、鎌倉や箱根までドライブする。

帰宅して、契約書に押印してもらっても、それで終わりではない。神主さんがやってきて、お祓いが始まるのだ。お祓いが終わって、やれやれと腰を上げかけると、
「お赤飯炊けたから、食べてって」

個性的な先輩セールスマン

先輩たちも強烈だった。
例えば、こんな先輩がいた。*1
リーゼント、絹のカラーシャツ、ネクタイには派手なタイピンがギラギラ光る。
彼はメカニックに「故障で俺のお客さまから電話があったら、すぐに回してくれ」と頼んでおく。そして、電話が回ってくると、

「・・・ あ、奥様でいらっしゃいますか? ご無沙汰しております、内田でございます。今日はまた何か? ・・・あらっ、エンジンがかからない? それはまたいけませんでございますねえ~! ハイ、私、すぐ飛んで参ります!  ・・・どうかひとつ! 奥様、 どうか ひとつ ー! ・・・なにをおっしゃいますやら、水臭い! メカニックに電話をかける前に、 私の方へ、 内田来てくれと、どーして言ってくれないんでございますか! 内田、悲しゅうございます。・・・どうか ひとつ! ・・・奥様、そういうお気遣いは、ど~かひとつ!」

そして、顧客の元に駆けつけ、シャツや顔を油で汚しながら、わざと時間をかけて修理する。

「奥様、やっとかかりました」
「悪いわねえ。あら~、そんなにシャツが汚れちゃって」
「なにをおっしゃいますやら! 奥様のためなら。どうかひとつ」

後日、その顧客が車を買いたい人を紹介してくれる。すると、90%は契約成立。シャツ1枚で車1台を売る凄腕なのだ。

ちなみに、彼の殺し文句「どうかひとつ」は、後年コメディアンとなった政夫の代表的なギャグのひとつになった。


突然の危機・・・そして、それを救ったのは?


マイカー黎明期を支えたセールスマンたち

トヨペット乗用車センターは全国的にみても、特別な営業所だった。*1
なにしろ精鋭揃いで、政夫以外にも月8台、9台のノルマを抱えるセールスマンがゴロゴロいる。つまり、センター全体の月販売ノルマも多かったのだ。
神奈川県の全営業所の中でもダントツの成績。
ノルマを達成できない営業所が全国で20~30ある中で、それだけの高いノルマを確実にクリアする営業所は珍しかった。

しかし、それは政夫たちセールスマンの必死の働きがあってこそ達成できたものだ。生半可な働きぶりではない。今ならブラックのそしりを免れられないだろう。

ここで、日本の乗用車の普及状況をみてみよう(図1)。*3


図1   昭和40年から50年までの自動車の普及率
出典:国土交通省「昭和51年度運輸白書 第3章 第1節 自家用車の急激な普及 1.保有台数の急激な増加」

第1節 自家用乗用車の急速な普及

www.mlit.go.jp


 
少し見にくいが、図中のバーの一番下の部分が乗用車、その上がトラックだ。
昭和30年代前半には二輪車が普及し、その後、昭和35年頃から全国的に乗用車が普及し始め、40年代に急激に普及した。
図1は昭和40年から始まっているが、政夫が中古車のセールスに邁進していたのは、その直前の数年間に当たる。
こうした乗用車の黎明期にも、またそれに続く急激な普及期にも、それを支えたセールスマンたちの並大抵ではない働きがあったのだ。
 

初めて訪れた危機

精鋭揃いのトヨペット乗用車センターにも、ある日、危機が訪れた。*1
締め切りの31日になってもセンター全体の月ノルマが達成されていなかったのだ。そんなことは初めてだった。

部長は興奮状態で社員を怒鳴りつけ、さまざまなアイディアを出し、可能な限りの手を尽くした。
しかし、午後になってもノルマに届かない。
ついに夜になってしまった。
やがて、8時になり、9時になって、必死に外を回っていたセールスマンもしょんぼり帰社する。
ノルマ達成まであと1台。だが、その1台がどうしても売れないのだ。

やがて、10時になったとき、部長が政夫を呼んだ。
「どんな手を使っても構わん。今日中にあと1台、やってみてくれ、頼む」
そういうと、部長は政夫に頭を下げた。

入社1年目のこの僕に!
体に電流のようなものが走り、じわっと目頭が熱くなった。

「わかりました、やってみます!」

「今がその時なのかな?」

政夫が向かった先は大久保さんの家。政夫が最初の1台を買ってもらった顧客だ。
その後も2回新車を買ってくれた。
政夫は月に何度も大久保さんの家を訪れ、ご馳走になったり、猟に連れて行ってもらったりした。まるで家族のような付き合いだ。

その大切な顧客を失ってしまうかもしれない。そう思ったが、頼れるのは大久保さんしかいなかった。

時間は10時半を回り、大久保さんの家はもう電気が消えて真っ暗だ。
それでも、大久保さんは起きてきて、「どうしたんだ」と応接間に通してくれた。

「えっ、俺に車買えっていうの?」
「・・・はい」
「だって、3か月前に買ったばかりだよ。俺、運転下手だから、1,000キロも走ってないぜ。まだ新車だしなあ」
「それは、重々、承知しております」
「でもなあ、まだ1,000キロだしなあ・・・」
「重々承知しております」

大久保さんはう~んと唸り、腕組みをしておし黙ってしまった。
やはり、無茶なお願いだったか・・・、政夫があきらめかけたその時、
「あのね」
と、大久保さんが口を開いた。

「俺は、松崎さんが困ったときには、力になろうと思ってたんだよ・・・今がその時なのかな?」
「はいっ、大変に困っております」

少し考えていた大久保さんは、家にあった現金をありったけ持ってくるよう奥さんに告げた。
「あ、あの、形だけでいいんです。あとでキャンセルしていただいても・・・」
「そういうわけにはいかんだろう」

そう言うと、大久保さんは30万円を頭金にして、その場で新たに新車を購入してくれたのだ。

「ありがとうございます。今の車は買ったときのお値段で引き取らせていただきます。あと、サービスもできる限りのことをさせていただきますので」
「サービスはいいから、1つだけ約束してくれるかな?」
「はい」
「1週間に1度うちに来て、家族と一緒にご飯を食べること」

政夫の体にまた電流が走り、熱い涙が溢れてきた。
涙がぽろっとこぼれて膝に落ちる・・・。

「はい・・・」
政夫は頭を下げたまま、しばらく顔を上げることができなかった。

顧客エンゲージメントとはなんだろう

どんなマーケティング本を読んでも、顧客エンゲージメントの重要性と、その獲得・強化の難しさについて書いてある。古くて新しい課題だ。

では、上のエピソードで、なぜ政夫は無茶苦茶な依頼をしたにもかかわらず、顧客からこれ以上ないほどのエンゲージメントを示してもらえたのだろう。

顧客エンゲージメントはどうやったら強化できるのか。上の問いの答えに、そのヒントが見いだせるのではないだろうか。


資料一覧
*1
小松政夫(2017)『のぼせもんやけん 昭和30年代横浜~セールスマン時代のこと。』(電子書籍版)No.465-473、No.573-590、No.707-740、No.1309-1316、No.1718-1790

*2
小松政夫(2017)『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』KAOKAWA pp.22-23、pp.20-21

*3
国土交通省「昭和51年度運輸白書 第3章 第1節 自家用車の急激な普及 1.保有台数の急激な増加」

第1節 自家用乗用車の急速な普及

www.mlit.go.jp



<*1・*2 エビデンスキャプチャ>

顧客エンゲージメント エビデンスキャプチャ - Google Drive

drive.google.com

顧客エンゲージメント エビデンスキャプチャ - Google Drive
横内 美保子

この記事を書いた人

横内 美保子

博士(文学)。総合政策学部などで准教授、教授を歴任。<br> 留学生の日本語教育、日本語教師育成、リカレント教育、外国人就労支援、ボランティア教室のサポートなどに携わる。<br> パラレルワーカーとして、ウェブライター、編集者、ディレクターとしても働いている。 <br> twitter:<a href="https://twitter.com/mibogon">https://twitter.com/mibogon</a><br> Facebook:<a href="https://www.facebook.com/mihoko.yokouchi1">https://www.facebook.com/mihoko.yokouchi1</a><br>Instgram(mihokoyokouchi):<a href="https://www.instagram.com/?hl=ja">https://www.instagram.com/?hl=ja</a><br>